読書日記

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『ヴァーグナーの「ドイツ」——超政治とナショナル・アイデンティティの行方』吉田寛

 

吉田寛ヴァーグナーの「ドイツ」——超政治とナショナル・アイデンティティの行方』(2009、青弓社

 

本書は、ヴァーグナーの芸術と思想における「ドイツ」の理念を考察することで、19世紀ドイツ・ヨーロッパにおけるネイションやフォルク、ナショナリズムのあり方を新たな視点からとらえなおそうと試みた一冊である。ヴァーグナーの活動を時代を追って歴史的に考察することで、「19世紀ドイツの革命運動やナショナリズムについての既存の画一的理解を複数化し、それによって結果的に「ドイツ」の理念そのものに再び亀裂を走らせ…そこに複数の可能態を導入する」[p. 30]ことが本書の狙いであると筆者は書いている。ナチズムの時代から振り返ってヴァーグナーを論じるのではなく、彼の生きた時代と場所に即して彼のドイツ概念を分析する試みは、彼の思想的展開をダイナミックに臨場感を持って映し出すことに成功しているといえよう。実際に、パリでの挫折の経験がフランス的な流行を批判しドイツ的なものの称揚へつながったり、あるいは三月革命の失敗やそれに付随するヨーロッパにおけるナショナリズムの変容を背景にワーグナーが民衆的コスモポリタニズムから国民的ナショナリズムへ舵を切ったりというように、同時代の環境やワーグナー個人の経験が彼の哲学に大きな影響を及ぼしていることがはっきりと見て取れる。現代に生きる我々が後出しじゃんけんで彼の反ユダヤ主義的・差別主義的思想を断罪するのは簡単なように思えるが、本書を読んでいると、そうした批判をするだけの資格が私にあるのだろうか、自分が同時代に生きていたとして、果たして批判ができただろうか、と考え直してしまう。

 

序章

 序章では、ヴァーグナーについての若干の概略と、ヴァーグナー論の先行研究が示される。特にアドルノ、ヴィーレック、トーマス・マン、アップルゲートの四人の先行研究を中心に取り上げている。アドルノは「ドイツとは何か」という問いをめぐって、ヴァーグナーの「ある事柄をそれ自体のためになす」というドイツ理念が国家の神格化につながったと論じている。ヴィーレックはナチズムにつながる精神的起源としてヴァーグナーを分析し、ここに「超政治」的な概念があったと論じている。マンは、ドイツをめぐる困難な自己批判を背負い続けたが、ここには「ドイツの特殊な道」論の弊害が見て取れる。すなわち、何かナチズムと結びつきそうな政治指向が見いだされれば、それを直ちに「ナショナリストのレトリック」として誇大解釈する傾向である。アップルゲートはこの「ドイツの特殊な道」論を克服すべく、そもそもの特殊と正常の類型化に異を唱え、音楽文化を民衆の直接的表現として肯定的にとらえなおそうとした。

 また本書の方法論のモデルとなったというハンス・サルミとダールハウスの視点が示される。両者の視点は、ヴァーグナーを現在の視点からではなくその時代における状況の内側の視点から分析することの重要性を説いてくれる。特に、ハンス・コーンのナショナリズム論を援用したダールハウスの主張は、ヴァーグナーナショナリズム理解も、ある時点まではコスモポリタンな理念との調停を試みたものであったと主張する点で必見の議論である。

 

第一章 出発点としてのコスモポリタニズム

 本章では、ヴァーグナーが初期においてコスモポリタニズムの立場をとっていたことが述べられる。彼は青年ドイツ派の思想的影響を受け、ドイツ音楽が哲学的な学識性にばかり気を取られ、民衆の立場に立って作品を作ることができていないと主張する。これを改善するためには、イタリアとフランスの音楽趣味を混合し、コスモポリタンな作品を作る必要があると考えていたのであった。

 

第二章 パリでの挫折を経て

 職を求めてパリへ移住したヴァーグナーは、ここで数々の挫折を経験する。しかし、パリに来た直後に発表した「ドイツの音楽について」では、まだドイツ音楽がフランス音楽との協力でより優れたものにできるという信念を有していた。

彼にとってドイツ的とは事物を「それ自体のために愛する」ことであった。したがって、ドイツ人は音楽をそれ自体のために愛することができるという。しかし、ドイツは当時いくつもの諸侯に分断されており、統一的な「国民」を持っていなかった。したがって、その音楽もまたドイツ全体を表象するようなものではなく、「地域的な所産」にすぎなかった。

さらに、ヴァーグナーはドイツ人の特徴として「普遍的な傾向」があり、ゆえにドイツ人は外来のものを取り入れることが可能であると主張する。ただし、ここには明らかなパラドックスがあり、ドイツは「純粋に出自的に忠実である限りにおいて」普遍的なものを生み出すことがあると主張している。結論として、彼はフランス人とドイツ人が協力することでもっと優れた音楽劇を生み出すことができると考えていたのである。

だが、ヴァーグナーはパリで陰湿な取引や利害の打算など、様々な暗い側面を知ることとなり、パリへの失望を募らせる。そうした中で、彼はかえって祖国ドイツへの思いを強くしたのであった。

 

第三章 ドレスデン時代

 失意のうちにパリを去ったヴァーグナーは、ドレスデンでの上演の道を模索するようになる。だが、パリでの挫折に関わらず、この時代の彼にフランスへの敵対心や強固なナショナリズムは見られなかった。代わりに彼は、ヘーゲル左派の影響を受け、「革命」への志向を一層強めた。この志向には、彼を取り巻く環境——宮廷オーケストラを取り巻く不合理、商業主義的な音楽現場、無理解な聴衆、機能不全のジャーナリズム、などへの不満が大いに関係していた。

 三月革命の勃発によってドレスデンでも無血革命が進行した。ヴァーグナーはこれに際し「ザクセン王国のためのドイツ国民劇場組織案」を提出した。この劇場は、聴衆=国民のために責任を負う劇場であるとされた。ここでいう「国民」とは、フランスの市民思想に影響を受けた、自由と平等の原理によってすべての人々権利が保障される共同体であった。しかし、当時のドイツにはそうした意味での「国民」が存在する地盤がなかったため、ヴァーグナーはこれを創出しようと試みたのである。だが、一方で、彼の「国民」概念が「ドイツ的なもの」という民族的な意味合いを含んでいたことにも留意する必要があるだろう。

 その後彼は共和主義運動に加担し、君主制の維持と階級撤廃の折衷的な論理を説くこととなるが、こうした論理の中で、「ドイツ的なもの」と「普遍人間的なもの」を一体視するような思想が生ずるようになる。だが、革命勢力の運動はフリードリヒ・ヴィルヘルム四世の戴冠拒否以降、解体の一途をたどるようになる。ザクセンでも、革命運動は最後の抵抗を行ったが、これらはすべて鎮圧され、ヴァーグナーチューリヒへと亡命する。

 

第四章 『未来の芸術作品』と民衆の理念

 亡命先のチューリヒで彼は執筆活動に専念するようになる。『芸術と革命』では、民衆的であったギリシャの芸術が理想として俎上に上がるようになる。ギリシャ以降の芸術は、思弁的、商業的、産業的なものとなっており、衰退してしまっている。彼は、失われた過去のギリシャの芸術を未来に向けて革命的に取り戻そうと試みるのである。そして、この「未来の芸術」は国民性を超越した普遍人間的な芸術でなくてはならないとされた。自由で平等な社会を目指すための芸術を称揚し、国民の芸術ではなく、普遍主義的な民衆の芸術を求めるのである。

 『未来の芸術作品』では、上の枠組みを援用し、具体的な「未来の芸術」の内実に迫ろうとする。彼はヴェートーベンの『第九交響曲』を理想視し、彼の作品のドイツ性や器楽の限界に対して「声」を導入したことに焦点を当てる。ヴェートーベンの目指した「絶対音楽」の理想は、彼の最後の交響曲で言葉(声)を導入することで、音楽史の決定的転回となったのである。

 こうしたヴェートーベン理解をより広い歴史哲学のパースペクティヴにあてはめ、より普遍的な民衆(※ヘルダー的な意味で)のための音楽=芸術のあらゆるジャンルを包括する偉大な「総合芸術作品」が実現されるべきだと説く。このためには、非普遍主義的な国民国家を毀棄し、近代化に伴う音楽の多ジャンルからの「自立化」を毀棄する必要がある。ギリシャ的な国家的、音楽的コスモポリタニズムを取り戻し、詩と音楽と舞踊の三位一体としての「劇」を打ち立てるべきだというのである。

 

第五章 『オペラとドラマ』にみる「ドイツ的なもの」

 『オペラとドラマ』もまた上の「総合芸術作品」の理想を論じたものであるが、一方で、上のようなコスモポリタニズムから距離を置き、「ドイツ的なもの」への回帰が見られる。ここでヴァーグナーは「ゲルマン的なもの」と「ローマン的なもの」の違いを精緻に理論化し、真の「劇」は、最も根源たるドイツ語によってのみ実現可能であると説く。

 この変化の背景には、革命の失敗、フランスへの再度の失望、そしてこの時期のドイツの民衆運動そのものの変質がある。最後の点は、ハンス・コーンの指摘した二月三月革命以降のヨーロッパナショナリズムの変容である。彼曰く、この時を期にヨーロッパのナショナリズムは民衆の民主的革命運動であることをやめ、すぐれて保守的、反革命的な運動になったという。この変化と同時に、ネイションの重心が「民衆」から「国民」に移っていく。ヴァーグナーのこの時期の変容は、このナショナリズム自体の変容と重なり合う。コスモポリタンな平和主義のよりどころとしての「ナシオン」概念は、民主革命の挫折を経て、「国民」の排外的で自己中心的な傾向を強めていくのである。

 

第六章 祝祭劇場の構想とドイツへの帰国の途

 上に見た思想の変化は、彼にドイツへの帰国を強く望ませることとなる。この中で彼は「祝祭劇場」の構想を完成させ、革命とドイツ性を一体化した思想を完成させていく。『未来音楽』で、彼はローマン系国民に対するドイツ人の芸術形式の優位を主張し、普遍的な芸術としての劇は自然で普遍的なドイツ語を持つドイツ人によってのみ実現可能であるとする。

 その後、ヴァーグナーバイエルン国王のルートヴィヒ二世と出会う。ルートヴィヒ二世の側近となったヴァーグナーは、芸術と政治のより実践的な問題を扱うようになり、現実の政治世界で自身の思想を実現しようと努めることとなる。

 

第七章 「最もドイツ的な国家」としてのバイエルン

 ヴァーグナーバイエルンでルートヴィヒ二世に自らの芸術的理念やドイツの理想、政治的提言を行った。実践的な政治に関わる問題に重点を移し革命家から国家主義者へと転向するとともに、彼の国家論やドイツ論も変容した。

 「私はドイツ精神である」という一節もこの時期に書かれたものである。彼は自身を完全にドイツ的であることと一致させる。そして、彼の関心は、ドイツ精神そのものである自身の芸術を受け入れてくれる民衆の存在が不可欠だ、という点に絞られていく。彼は「ドイツ的なもの」を「ローマン的なもの」と鋭く対置し、普遍性という特質を芸術を通じて表現することがドイツ人の偉大な使命であるとルートヴィヒに説く。

 ワーグナーは、プロイセンなどのゲルマン民族を非ドイツ的であるとみなしていた。つまり、プロイセンもまた非ドイツ的な国家であり、フランスかぶれの辺境国だと見下していた。彼は、バイエルンこそが新星ドイツの盟主になるべき国家であると信じて疑わなかった。だが、バイエルンの宮廷での権力闘争に敗れ、ワーグナーは1865年末にミュンヘンを去ることとなる。

 

第八章 ドイツ統一戦争とワーグナー

 この頃のドイツは、普墺戦争プロイセンが勝利したことによって、プロイセン中心の小ドイツ主義の勝利が決定的となった。これまで、ワーグナーは反プロイセンの立場をとっており、プロイセン及びビスマルクを「非ドイツ的性質の悪しき見本」とし、プロイセンでもオーストリアでもない第三の大国であるバイエルンを中心としたドイツの統一を理想としていた。しかし、バイエルン普墺戦争に際しオーストリアの側に付くと、ワーグナーはこれに絶望し、急速にプロイセンに接近する。結局プロイセンオーストリアに勝利し、小ドイツ連邦を成立させる。

 オーストリアのドイツからの離脱が決定的になると、ワーグナープロイセンプロテスタントとドイツ的なものを重ねていくようになる。この背景には、フランスというより大きな敵との戦いに際し、国家統一の必要性が差し迫ってきているという現状認識が関係していた。ここで、ワーグナーはこれまでの「フランス文明」対「ドイツ精神」の図式を改めて『ドイツ芸術とドイツ政治』で結実させる。彼は両者を、「頽廃的な物質主義文明」と「根源的で純粋な精神」、「民衆なしの上からの芸術」と「君主なしの下(フォルク)からの芸術」、「有用性のために何事かを行うという功利主義唯物論」と「それ自体のために何事かを行うという美学・感性の学」、「外的形式としてのモード」と「内から新たに変形する改革」といった二項図式で説明する。ここでは、彼の普遍性の概念が変化しており、今やコスモポリタン的な普遍性はユダヤ的・非ドイツ的なものでしかない。普遍性は、あくまでも民衆的基盤を持つ限りにおいてドイツ的なのである。

 ビスマルクへ接近した彼は、プロイセンのフォルクに基盤を置く国民軍がフランス文明をうち砕くことに大きな希望を寄せた。ドイツ国家の樹立という理念、そして真にドイツ的な芸術の完成、この二つを彼はビスマルクプロイセンに託すようになる。彼は『ヴェートーベン』でこの頃の思想の集大成を結晶化させる。彼はショーペンハウアーを援用し、音楽が普遍的で誰からも一瞬のうちに理解されるという点で他の芸術から区別される「最上にして最も高貴な芸術」であると主張する。他の芸術がただ「陰」について語るのに対して、音楽は「本質」「現実」を指し示すのである。というのも、音楽の知覚には空間的にも時間的にも距離が存在せず、音が直接的に我々に届くのである。

 そして、こうした音楽とその他芸術の本質的差異を、彼は「崇高」と「美」の概念的な差異と結びつける。彼にとって、「美」とは造形芸術の視覚的な形式のよしあしを判定するための概念であって、「非音楽的」であるという。これに代わり、「崇高」という「無限なもの」の概念を導入し、それ自体のために何事かをなすというドイツ的なこと、あるいは形式的でない無限の可能性をもつ音楽、を「崇高」なものとして定義する。つまり、

「美=視覚=主客の分離=有限性=非ドイツ的」

「崇高=感覚=主客の一体=無限性=ドイツ的」

という図式で「美」と「崇高」を定義づけるのである。そして、この「崇高」を体現するものとして、ヴェートーベンが重要性であるというのである。

 

第九章 新生ドイツ帝国の誕生と「ドイツ的なもの」のゆくえ

 こうして、ドイツ人が打ち立てた偉大な作品である「ヴェートーベンの第九」と「ビスマルクドイツ帝国」に「ドイツ精神」があると結びつけたワーグナーは、ビスマルクにさらに接近して、ビスマルクに『皇帝行進曲』を献呈する。だが、ビスマルクワーグナーの芸術に1mmの興味も示さず、ワーグナーは金銭的な援助を得ることに失敗する。そこで彼はワーグナー協会を設立し、支持者から援助をもらおうと試みる。この方法は、ワーグナーの考える「下からの」改革というヴィジョンと共鳴していた。

 

第十章 「ドイツ」はいずこに?

 結局ビスマルクは「政治の専門家」であって、極端なまでに非文化的であった。全く芸術に興味を示さないビスマルクについに失望したワーグナーは、新生ドイツ帝国そのものへの反感を膨らませる。彼が長年夢見てきた「ドイツ精神を体現する国家」として建国されたはずであったドイツ帝国が、まったくもって「非ドイツ的」国家であることが判明したことで、彼の希望がドイツで実現する可能性はもはや永久に閉ざされたのである。

 さらに、ワーグナーを失望させる出来事として、彼のバイロイトでの公演があった。ここに集まった「民衆」は、ワーグナーが半生を費やしてようやく完成させた神聖祝祭劇を、ただのオペラとしてしか理解できなかった。ずっと期待し続けていた「民衆」にも、彼は裏切られてしまったのである。

 こうして彼はドイツへの希望を完全に失い、けがれなき新大陸としてのアメリカ、また堕落する前のキリスト教・仏教へと傾倒するようになる。ショーペンハウアーの影響を受けたワーグナーは、ショーペンハウアーの宗教論、すなわちキリスト教ユダヤ教と接ぎ木されることによって堕落したが、元来は仏教と同根の自然と不即不離の精神を持ったものであったという宗教観、を受容し、反ユダヤ主義に宗教史的な根拠づけをするようになった。本来のキリスト教精神が存在する仏教に立ち返り、真のキリスト教を回復させようと試みるのである。

 だが、彼は同時代の政治的な反ユダヤ主義運動には必ずしも同調しなかったし、彼の反ユダヤ主義がむしろユダヤ人によって真摯に受け止められたという事実を見逃してはならない。彼のユダヤ教批判は現代文明全体に対する批判であって、実際にユダヤ人らはこうした側面から、ワーグナーの批判を「崇高」な精神的戦いであると理解しようと試みたのである。