読書日記

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『第三帝国の歴史 第一巻——第三帝国の到来(上)』リチャード・E・エヴァンズ

リチャード・E・エヴァンズ『第三帝国の歴史 第一巻——第三帝国の到来(上)』(監)大木毅 (訳)山本孝二 (2018、白水社)

 

本書は、ビスマルク以降のドイツの歴史を幅広い視点から大ボリュームで論じた『第三帝国の歴史』の第一巻である。しばしば議論に上がる「なぜドイツはナチズムを生んだのか」という問題は、単線的な歴史解釈や本質主義的なドイツ解釈では十分に理解できない。同様に、ナチズムの勃興を同時代のヨーロッパ独裁制の中で生じたと考える解釈も、ほかでもないドイツでナチズムが生まれたことを説明しない。エヴァンズは、ナチズムが本質的にドイツ独自のものであった政治的・イデオロギー的な伝統と発展から成功を引き出したことを否定しない。他方で、ナチズムの勃興はあらかじめ決められた結末ではなく、そこに至るまでのプロセスは様々な方向への紆余曲折を経ての帰結であった、と主張する。ゆえに、本書では、ドイツ史の記述をビスマルクから開始し、以降の複雑な歴史プロセスを辿っていくのである。

 

第一章 過去の遺産

第一節 ドイツの特殊性

 ビスマルクは、現在「鉄血宰相」のイメージから暴力的で強力なリーダーシップを有した人物であるとみなされている(これはWWⅠ以降創造されたイメージに起因する)が、実際はそうではなかった。彼はずっと複雑な人間であり、ドイツの歴史もまた、ビスマルク以降まっしぐらに独裁へと踏み込んでいったわけではなかった。実際に1860年末の時点(1848年革命の失敗以降)でも代議制民主主義や結社・出版の自由が認められていた。だが、ビスマルクがナチズムにつながるいくつかの不吉な特徴もあった。第一は、国号を「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」と定めたことにある。実際、この国号はヴァイマル共和国下でも継続することとなり、「中欧のドイツ語話者すべてを包含する一つのドイツ」というイメージは、ナチのスローガン(「一つの国民、一つのライヒ、一つの指導者」)へとつながっていった。第二は、ビスマルク1871年憲法に人権と自由の原則が全く存在しないことである。戦争は君主と側近の専権事項であり(陸軍はカイザーへの帷幄上奏権を持っていた)、政治は官吏に支配されていた。マルクスの言葉を借りれば、「官僚主義的に構築された軍事専制」であったのである。

 こうして軍は権力を有するようになり、軍による政治的な目的のための暴力行使が正当化された。非常時には軍は戒厳令を敷き、市民の自由を停止する権限を与えられた。特に統一戦争で多くの功績を残した陸軍の威勢は強大なものであり、多くの軍人が国家公務員として警察や下級官吏として働き口を得た。

 政治勢力は、自由主義者(国民自由党と進歩党)、カトリシズムの中央党、社会主義社会民主党に分かれていたが、この事態はドイツ社会が宗教、地域、階層などによって幾重に分裂していたことを反映していた。かかる状況下で行われた選挙は、85%の投票率を誇り、投票者が民主制を高く信頼していたことがわかる。

 1914年以前のドイツは、多くの人々にとって、平和、繁栄、社会的調和が存在した安息の地であった。だが、うわべはそうであっても、水面下では不安とあやふやさに悩み、国内の緊張に苦しんでいた。経済・社会の成長が急激に進んだことは、多数の者を困惑させた。こうした中で、国内は対立によって引き裂かれ、緊張が反ユダヤ主義ナショナリズムへとつながっていくのである。

 

第二節 憎悪という福音

 ドイツのユダヤ人コミュニティは、ちっぽけな宗教的マイノリティにすぎなかったが、医学、法学、科学研究など、様々な分野で成功を収めるようになっていく中で、宗教的少数派からエスニック集団の一つへゆっくりと変化していった。そして、ユダヤ人は文化的・金融的・社会的な近代性の象徴となった。こうした状況下で発生した経済不況は、本来は世界的な原因であったのにもかかわらず、ユダヤ人のせいであるとみなされた。こうして困窮した小企業や手工業者は、自分の生計がうまくいかない鬱憤をユダヤ人にぶつけた。ドイツ保守党は、上のように主張する政治家が農村部で支持を集めていることに恐れ、自党の優位を脅かしていると考え、自身も反ユダヤ主義的な言説を取り入れた。

 こうした反ユダヤ主義は、ユダヤ人を人種的なマイノリティとみなし彼らのドイツへの同化が不可能であると考えるという点で新しかった。この新たな反ユダヤ主義への転換はヴィルヘルム・マルの著作にさかのぼることができる。彼は、ユダヤ人問題を「血統」の問題であると主張し、ドイツ人と対置した。彼の主張の根拠はあくまでも彼の個人的な経験に根差しており(彼の妻はユダヤ人であった)、政治的運動には与しなかった。実際、ドイツの大多数は、反ユダヤ主義に反対していた。社会民主党反ユダヤ主義に断固反対し、多くの教養人はユダヤ人と喜んで仕事をしていた。

 だが、中央党や保守党は、反ユダヤ主義的な考えを採用した。彼らの支持基盤は経済危機に瀕した下層中産階級であった。さらに反ユダヤ主義は次第に社会の上層部にも広がるようになり、ヴァーグナー周辺によって取り上げられたことで、精緻に磨かれた。ヴァーグナーは『音楽におけるユダヤ主義』でユダヤ精神が音楽の深遠さに敵意を抱いていると主張したことで知られているが、彼の死後、彼の周囲の集団はヴァーグナーの主張を発展させ、アーリヤ主義につながるような人種的純粋性にかかる議論を展開した。

 チェンバレンの『19世紀の基礎』は、ユダヤ人を世界的な脅威に祭り上げた。彼は、反ユダヤ主義と人種主義を社会ダーウィニズムと融合させるという点で、重要な寄与を成した。同様にヴォルトマンはゲルマン民族の人種的優越を主張し、劣った民族を征服する必要性を説いた。こうした主張は、人種主義と遺伝学などの科学を結びつけ、弱者(これは遺伝的に決定されている)は社会的に害でしかなく、これを抹殺して強者を繁殖させねばならない、といった「負の自然選択」が大きく強調されるようになった。

 こうした考えは、犯罪学や公衆衛生の分野とも結びついていく。犯罪者や浮浪者といった社会的逸脱者は、遺伝的に汚染されていると考えられるようになるのである。そして、彼らの中にいくつかの基本原則なるものが確立していく。遺伝が人間の行動を決定する、社会は国家によって指導・管理されるべき、国家にとって「価値ある」人々とそうでない人々を分類し後者を排除すべき、といったものである。反ユダヤ主義と人種衛生の考えは、ナチのイデオロギーの重要な構成要素となる。

 だが、こうした主張は、一貫したイデオロギーとして存在していたわけではなかったし、思想の自由や代議政治、寛容、基本的権利といった原則を多くのドイツ人が信じていた。社会民主党自由主義者も、なお大勢力であった。反ユダヤ主義と人種衛生が組織的なイデオロギーと結びつくのは、WWⅠを経てのことである。

 

第三節 1914年の精神

 オーストリアは、強力なドイツ帝国に併合されることを望むようになる。そうした動きはドイツ人の人種的優越という考え、さらには反ユダヤ主義と結びついた。一方、その頃ドイツでは、ビスマルクが辞職し社会主義者鎮圧法が失効したことにより、多彩な政治運動が生まれてきた。植民地主義からアフリカにおけるドイツの領土獲得を主張したペータースが結成した「全ドイツ連盟」、帝国外のドイツ植民地域におけるドイツ語使用の維持を求めた「ドイツ学校協会」、クルップの資金提供を受けて大艦隊建設に関心を寄せた「艦隊協会」など、様々な団体が結成された。こうした国家主義的団体は、ドイツ帝国の「完成」のために、マイノリティを抑圧しドイツ語圏を征服する必要を訴えていた。

 WWⅠに突入したドイツは、東部戦線で功績をあげたヒンデンブルクが権力の手綱を握るようになり、戦争の中ごろには、「戦争に勝つ」ことが最優先の目標とされた。この中で、次第に強力なドイツ帝国の実現が現実の国家・法的枠組みでは不可能であると考えられるようになり、暴力や欺瞞の必要性が叫ばれるようになる。

 

第四節 混沌への沈降

 ドイツはWWⅠで敗戦国となったが、ドイツ国民は、ドイツが敗れるなどまったくもって信じられなかった。彼らは、WWⅠでドイツが敗北したのは、国内の敵に背中を一突きされたから、ただそれだけの理由なのだ、と信じるようになった。講和条件でドイツに様々な条項が要求されると、国民はそれを凌辱的であると感じ、遺恨は一層深まった。特に戦勝国がドイツとオーストリアの統合を許さなかったことは、彼らに衝撃を与えた。

 ほとんどのドイツ人は、ドイツは今や唐突に力ずくで列強の地位から追放され、不当な恥辱を与えられている、と考えるようになった。実際、ドイツに課された賠償額はドイツ軍がフランスやベルギーにほどこした理不尽な破壊を考えれば根拠のないことではなかったし、ドイツのリソースでは手に負えないというほどではなかった。だが、ドイツの国家主義者が不正なやり方でWWⅠに敗北したと考え、講和条約に対する恨みを募らせている状況にあっては、うまくいくはずもなかった。

 こうした敗戦後の経験は、ドイツ人の国民意識を強めた。「十一月の犯罪者」(ドイツ革命を起こした者)への憎悪は燃え上がった。軍の背中を一突きし、カイザーを廃位させて休戦協定に署名するという二重の罪を犯した輩は国家に対する裏切り者であるとされた。社会主義者や民主主義者はどんな毛色であろうと、国家への背信者に等しかったのである。

 こうした状況を注視すると、暴力と殺人という手段がより正当化されてきていることが分かる。WWⅠ以降、意見の異なる者同士は議論ではなく、暴力に訴えるようになった。あらゆる陣営が武装集団化し、乱闘や口論が日常茶飯事になっていったのである。

 

第二章 民主主義の失敗

第一節 ヴァイマール共和国脆弱性

 WWⅠ後のドイツは、以上のような混沌の中にあったが、社会民主党が手綱をにぎることになった。エーベルト社会民主党の指導者として党の勢力伸長に貢献した。社会民主党民主党(左派自由主義)、中央党が過半数を占めた憲法制定議会は大統領に強大な権力を与えることに合意した。大統領は国民投票で選出され、立法府から独立した権限を持ち、非常事態には緊急令による統治を行うことが可能とされた。緊急令は例外的な非常事態のみを想定したものであったが、初代大統領になったエーベルトはこれを広範囲に拡大行使し濫用、悪用した。彼は、共和国に対して脅威と思われるもの、特に左からの脅威に対してこれを乱発した。

 エーベルトは性急に戦争状態を平和状態へと移行させるために、君主制支持と超保守主義に凝り固まっていた将校団をそのままとし、軍と密接に協力した。エーベルトの死後、新生ヴァイマール共和国は政治的細分化と正統化の欠如に悩まされた。右派は、二代大統領にヒンデンブルク元帥を担ぎ出したが、彼は旧軍部と帝国の秩序の神髄を象徴する人物であった。ヒンデンブルクが大統領になったことは、民主制を信じない男が共和国の権能を握るということを意味した。

 ヴァイマール憲法は直接的な比例代表制を採用したが、これによって少数政党が乱立することとなったのは周知の事実である。だが、ヴァイマール期の少数政党乱立は、昔ながらのドイツ内の深い亀裂にも起因していた。この亀裂は、ビスマルク帝国初期以降の全生活領域の政治化の結果であった。一方で、1920年代以降の大衆娯楽の発展は、政治に代わるアイデンティティを若者に提供し始めた。彼らは生活を政党に捧げるようなことはしなかったが、他方旧世代の政治活動家たちにとっては、他の政治化と協力するなど決して考えられないことであった。

 社会民主党は、共和国を代表する政党であったが、政権政党の地位を享受したことは多くない。彼らはいまだにマルクス主義イデオロギーに拘泥し、ブルジョワ政党と協力することもできなかった。ドイツ民主党は青年運動内の準軍事団体と協力体制を組み右傾化した。中央党は無神論を唱える左翼の脅威から教会の権益を守るためには全体主義の転換も必要だと考えるローマ教皇の影響を受け、右旋回していった。社会民主党の分裂後大衆化した共産党は、次第にソ連に操作されるようになり、社会民主党との協力どころか共和国打倒のためにその敵と積極的に協力していくようになった。国家国民党は有権者に右翼思想を流布することに与っており、妥協を許さない方針を採った。国民党はシュトレーゼマン死去まではその本性を覆い隠していたが、死後、明確に極右へと向かっていった。このように、諸政党の多くが、民主主義の敵の手中に落ちたのである。

 ヴァイマールはまた、軍と官僚の支援を得ることはできなかった。軍は1919年の講和条約を遵守する意図などさらさらなく、文民政府に対する忠誠が欠如していた。軍同様、官僚も旧ドイツ帝国から継承されたものであり、民主主義でなく、ライヒに忠誠をささげる存在であった。

 

第二節 大インフレーション

 共和国は最初から経済的失敗にまとわりつかれていた。すさまじいほどのインフレに見舞われ、ドイツ経済は疲弊した。物価は戦前の数百万倍となり、あらゆる社会集団が経済的敗者となった。貨幣が価値を失い、物だけが価値を持つようになると、窃盗が街にあふれた。経済的に打撃を受けた多くの人々は、闇商人や不当利得者を憎むようになった。そんな雰囲気の中で、デマゴーグ陰謀論があふれ出し、ユダヤ人の邪悪さという空想的なイメージが蓄積された。だが、実際には巨大産業資本家や大投資家はこの危機において大して利益を得ることはなかった。彼らは、国から失業手当などを徴収されており、次第に社会民主党や共和国に対して敵意を抱くようになった。

 

第三節 文化戦争

 あらゆる生活領域における政治化は新聞、街頭紙などで顕著であった。これらは共和国の非行をそれが事実かどうかお構いなく暴露し、古き良き帝政時代と対比させた。ラジオや映画館といった新たなコミュニケーション手段、ジャズ、モダニズム芸術、これらはドイツの伝統にとっての脅威とみなされるようになった。古い世代の人々は、道徳と性の堕落が社会を覆っているとの認識を持つようになった。

 一方、若者においては「青年運動」が重要な役割を担った。この運動は公的政治組織から独立し、共和国やその政治家らをひとしく敵視していた。思想的には国家主義、その性格においては軍国主義的であったのである。彼らはナチを信仰する教師らに感化されて上のようになったのではなく、むしろ学校の厳格さに対する政治的叛逆にあった。大学、学生組合もまた若者の極右支持を示す重要な場所であった。

 司法においても、共和国への不信感は広がっていた。裁判官は、共和国立法議会が発した法律など、もはや中立的ではなく、神に定められた君主の発布した法律こそが真の法律であると信じていた。彼らの忠誠は共和国ではなく、抽象的なライヒの理想に向けられていたのである。裁判官は自身の政治的立場を利用し、多くの左派を厳しく裁いた(右派とは対照的に)。彼らはこの際に通常の司法制度を迂回し、司法判断の根拠を、「人民」に帰した。被告が愛国的動機から行動したのだと主張すれば、裁判官はほとんど例外なく情状酌量を与えたのであった。彼らのこうした偏向は、ヴァイマールの正統性を脅かしていたのであった。

 

第四節 適者・不適者

 ヴァイマールは福祉国家の創設という点で大衆の支持を求めるような成果があった。実際に、健康保険制度などの無料の包括的福祉制度が導入されたが、経済状況が悪化していくと共和国は次第に福祉制度を維持できなくなっていく。彼らは支払額と福祉機関の職員数を削減し、給付金申請者にずっと厳しい給付条件を課すしかなかった。

 こうした厳しい給付条件は、申請者の名誉や立場を侮辱した。ある人が、自分に値すると思っていた支援を求めた後で、福祉機関は疑いを持って調査する——申請者にとって福祉担当者の役人根性は無個性で非人情的なものに見えたのである。

 社会福祉行政が拡大すると同時に、人種衛生学や社会生物学の理論が行政内で大きな影響力を持ち始めた。行政官と医学者は「社会不適合者」を分類し、人格が遺伝的に「劣っている」人々は矯正不可能であるゆえに処刑されるべきだと考えた。

 共和国においてユダヤ人は様々な分野で活躍することが可能になった。一方で、これを気に食わないと考える反ユダヤ主義者は、ユダヤ人が臆病で不忠であることを示すために、統計的な調査を行った。だが、結果として分かったのは、ユダヤ人がむしろWWⅠの前線で積極的に戦っているということだった。ユダヤ人の多くは、実のところ骨の髄まで国家主義者であり、ドイツ帝国への帰属意識が強かったのだ。

 にもかかわらず、ユダヤ人によって「背後から一突き」されたとするデマゴーグが右派の間で広く信じられるようになった。ユダヤ人は、大衆がルサンチマンを向けるのに手ごろな標的であったのだ。

 

第三章 ナチズムの勃興

第一節 ボヘミアン革命家たち

 WWⅠ以降、バイエルンの情勢は混乱していた。戦争末期、アイスナーが革命政権を樹立し、バイエルン共和国の成立を宣言したが、この共和国は極右からの激しい暴力に遭い、アイスナーは暗殺される。続いて、その後の権力の空白に極左はレーテ共和国を樹立した。彼らはドイツ共産党の承認を待たずにボリシェヴィキ政権を樹立し、レーニンと連絡を取り始めた。これに対抗すべく、多数社民党のホフマンは義勇軍と手を結んだ。こうした状況の中で、赤軍のある部隊が極右とかかわりのある人質を射殺すると、極右の兵士たちは尋常でない憤怒を示した。革命派とかかわりがあるとみなされた人は、無実であっても無残に殺された。ミュンヘンは過激な政治セクトの競技場と化していた。

 ヒトラーは何よりも状況の所産であった。全ドイツ主義運動が抱いていた国民のアイデンティティに関する民族的・文化的概念の生きた見本といえた。ブルジョワ的慣習、支配階級、ルールや規範を憎み、WWⅠでドイツ人としての一体感、使命を得て、「背後からの一突き」を行った裏切り者としてのユダヤ人への憎悪を募らせる。こうした思考は当時のドイツにあってはごく普通のものであった。ヒトラーは、その後ドイツ労働者党で演説者としての才能を有していることに気づく。彼の演説は、自身の経験を語ることから始まり、それをWWⅠ後の絶望とそこからの回復と重ね合わせた。彼は問題を単純化し、誰でもわかるような簡単な言葉で民衆に訴えた。彼はユダヤ人商人に特に攻撃を集中したのである。民族社会主義者は、ユダヤ人がドイツを操ったのだという主張によって、左右二つの陣営を統合せんと欲した。階級を人種に、プロレタリア独裁を指導者独裁にと代替することで、通常の社会主義イデオロギーの語法を逆転させたのである。

 

第二節 ビヤホール一揆

 

第三節 運動の再建

 

第四節 献身の根源

 

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本書の記述を追っていくと、ナチスがいかにして生じたのかという問いに答えることがどれほど困難なことであるかが改めてわかってくる。突然ナチスが降って湧いてきたわけでもなく、ある決定的な出来事が直接的原因となってナチスにつながったわけでもない。ビスマルクの時代からナチスにつながる兆候はいくつもあったし(ビスマルクは国号をDeutsches Reichとしたが、このReichのイメージはローマ帝国の後継者、地上における神の帝国、一つのドイツ国家、といった夢想を刺激した。また、彼の1871年憲法には人権と市民的自由の原則は一切述べられていなかったし、安全保障の問題を君主とその側近の専権事項していた)、一方で1929年の突撃隊の暴力が激化する中でもナチスの政権掌握は決定的なものではなかった(経済党などの他の周縁的な右翼グループの方が支持率を集めていたし、社民党、中央党、民主党の三党がなお政権を握っていた)。

ナチスドイツについて語る際には、こうしたいくつもの事象が網目のように重なりあった経路依存性を考慮に入れなければならないだろう。実際本書におけるエヴァンズの記述はかなりの程度この点を意識しており、なんとp248までヒトラーは登場しない。

 


個人的に非常に興味深かった点は、当時のドイツにおいて、多くの市民が政治に高い関心を持っていた(というよりも持ちすぎていた)という事実である。ビスマルク以降のドイツにおいては、生活の全領域が政治化されており、購読する新聞、所属する合唱団、サッカークラブなど、私的な場面においても、自身の属するミリューに基づいた選択をしていた。例えば社会民主党員は、社会民主党の機関紙を読み、社会民主党のバーや居酒屋に通い、社会民主党の祭りに参加し、社会民主党の葬礼基金で埋葬してもらうというように、人生のほとんどを党とその関連組織に囲まれて過ごしたのである。この事実は投票率にも反映されており、1912年の選挙では85%もの高投票率を記録している。

こうした事実を鑑みるに、先の都知事選に見られたような低い投票率を絶対的悪とする主張には賛同することはできない。ハンチントンが指摘したように、過度に民衆が政治的となると、かえって正常に民主主義が機能しないことがあり得るのである。実際にナチスを生んだのは政治に関心がなかったからではなく、政治に関心がありすぎたからであるように思う。