読書日記

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『革命宗教の起源』アルベール・マチエ

アルベール・マチエ『革命宗教の起源』(訳)杉本隆司 (解説)伊達聖伸 (2012、白水社

 

第一部 革命宗教 

これまで、フランス革命は宗教的観点から研究されてこなかった。しかし、ミシュレ氏は連盟祭を一つの新たな信仰の表明と捉えたし、オラール氏はフランス革命の本質を反教権闘争ではなく、新生フランスの防衛ととらえていた。彼らの見方はフランス革命を宗教的観点から考察するためのヒントとなりうる。そこで本書はフランス革命を宗教的観点から考察することを試みる。

そのためにはまず、どうであれば「宗教的」といえるのかを考える必要がある。マチエは宗教の定義をデュルケムから持ってくる。すなわち、①(共通に有する)義務的な信仰、②外的な(社会的)実践活動、③物的対象やシンボルの中に具現化される宗教的信仰、の三点である。上を踏まえ、マチエは以下のように本書の目的を述べる。

 

革命者たち…は、その多様性にもかかわらず共通の信仰基盤を持ち、彼らが心から敬愛する集合標識で自身の信仰を象徴させ、共通の信仰を共同で表明するために自由に集まることのできる共通の慣行や儀礼を持ち、その他すべてのフランス人に自分たちの信仰やシンボルを行き渡らせ、既存の信仰・シンボル・制度を廃止し、取って代わろうとして、それに関わるものすべてに激しい憎悪を燃やした。もし私がこうしたことをすべて証明できたとするなら、どうしてその他あらゆる宗教と本質的にまったく同じような革命宗教が存在したと結論付けてはならないだろうか? [p. 18]

 

 第一は、「共通の信仰」を有していたか、である。彼らの思想の萌芽は18Cの啓蒙主義的考えである。すなわち、人間は社会組織を立て直せば自らの境遇を改善することができる、という考えである。ほどなく、「社会組織は幸福のための手段である」という考え方は、「幸福の追求は人間の仕事だ」という教義に発展する。ここから、彼らは国家と宗教について、国家は道徳的責務を果たさねばならないので宗教を守らなければならない、と考えるようになる。こうした思想はルソーにおいて体系化する。ルソーにおいては、「国家は道徳的でなければならない」ということになり、国家の目的は幸福の増大=公共の福祉にあると考えられた。この目的は法(=一般意志)によって公共の福祉が保護されることで達成できるという。だが、そうなるためには、あらかじめ法が人間によく理解されそれに同意している必要がある。そこでルソーは市民宗教の必要性を論じる。市民宗教とはいうなれば社会に存在する最小限の公準であり、これなしでは社会は成り立たない。革命家たちはこのようなルソーの考えを共有し、憲法や法律に応用したのであった。

 第二は「外的な信仰の実践」があったかどうか、である。上の理念を共有した革命者たちは、「立法者」として理念の実現に奔走した。実際に人権宣言にその理念は反映され、彼らは「国家は公共の福祉を保障しなければならない」「幸福のためには法を尊重しなければならない——第一の崇拝対象、それは法である」といったクレドをまじめに引き受けたのである。このクレドは、デュルケムの①の定義のように、共通の義務として市民に課された。その典型が「公民宣誓」であった。これは、新しい政治制度や人権宣言に同意すると正式に認める儀礼である。宣誓をすれば異邦人でもフランス人として認められ、逆に宣誓をしない者はフランス共同体から排除された。

 第三は「共通のシンボル・象徴」の有無である。まずもって、革命信仰は最初から明確で固有のシンボルで表現されていた。実際に、トリコロールの帽章、「祖国の祭壇」、「自由の木」、人権宣言・憲法が刻まれた金属板、などがそれにあたる。これら(帽章の着用、祭壇の設置)は次第に国家によって義務化され、「自由の木」に関してはこれを切り倒した者には禁固四年の刑が科されることになった。(一方で、旧体制を思わせるシンボルは徹底的に破壊され、容赦ない攻撃を受けた。)そして、これらのシンボルは実際に信仰実践や規則的儀礼、そして礼拝のシステムと結びついていた。例を挙げると、全国連明祭、市民洗礼、市民婚などがあり、これらによって市民のクレドに対する崇拝は声高に宣誓、表明されることとなった。

 「以上から、社会の制度化自体を対象とした革命宗教が存在したと結論づけてよいのである(pp. 75-76)」とマチエは結論付ける。「この宗教には、義務を伴う教義(人権宣言、憲法)と神秘的な崇敬の念に取り巻かれたシンボル(三色旗、自由の木、祖国の祭壇など)、儀礼(市民祭典)、そして祈りと唱歌があった(ibid.)」のである。

 

第二部 新宗教と旧宗教はどのように訣別したか?

第一章 憲法制定議会期の反教権運動

 1789年の時点では、上の新宗教は、カトリシズムと訣別し、自分こそが真の宗教であると自覚するには至っていなかった。第二部では、この訣別がいかにして進んだかを分析する。

 上で見たように、革命家たちはルソーの考えを受容し、民衆には必ず宗教が必要であり、市民宗教を受け入れることで彼らは政治制度に順応すると考えていた。このためには、宗教は国家のものとなる=カトリシズムを国民の宗教として作り変える、ことが必要不可欠であった。憲法制定議会の議員らはこの考えを採用し、聖職者市民法を制定した。在野の啓蒙主義者はより急進的な請願をおこない、司祭の結婚の自由、独身司祭の廃止などを主張した。 

1790年以降、ここにきて啓蒙主義者はさらに大胆に歩みを進める。クローツは『パリ時評』で「自然宗教以外に宗教は必要ない」とカトリシズムに全面的な批判を展開し、家父以外の一切の司祭が不要であると主張した。彼は、国家の「脱宗教化」を唱えるまでに至り、崇拝は私的なものとして公的空間から追放されるべきだと説いたのである。ネジョンも国家と宗教の完全な分離を要求したし、マレシャルも彼らに比べると幾分穏健であったが、聖職カースト制の廃止を要求した。一方で無神論よりも国家有神論を好む議論もあった。それによると、人間は元来迷信的であって、国家によって管理された宗教は自由を促進しうると主張された。

こうした反教権運動に対し、ジャコバン派はカトリシズムに代わる別の宗教として「祖国」を打ち出した。彼らは国民祭典の中でほぼ仕上がっていた革命礼拝を組織しようとした。そうしてミラボータレーランによって国民祭典が具体的に組織化され、ついに憲法付帯条項として国民祭典の制定が満場一致で承認された。

 

第二章 立法議会期の反教権運動 

立法議会は、その最初から聖職者市民法をめぐる問題を議論せざるを得なかった。実際に宣誓を拒否した僧、立憲司祭、ジャコバン派で宣誓拒否僧の処遇をめぐって対立した。この対立の中から、宣誓拒否僧を追放するのではなく、彼らの信仰の自由を保障すべきだとする考えが生じてきた。これは、教会と国家の分離という考えの萌芽であった。ゴドフロワは主教問題に関する国家の権限はせいぜい治安上の争点に限られると主張し、シェニエは宣誓拒否僧に対する厳しい批判を戒め、彼らの信仰の自由を保障する必要を語った。一方で、イスナールは「わが神は法以外にありえず。公共の福祉、これこそ私が情熱を燃やすもの」という力強い言葉に表れているように、司祭に対する過激な攻撃を展開した。次第に議会の多数派はこの考えを共有し、分離主義から距離を取り宗教の管理統制を主張するようになった。結局、1791年の政令では、簡素な公民宣誓すら拒否する僧は、社会契約を拒む者であって、共通の法の外部に追放されても文句は言えない、と示された。

この立法議会での大論争は、さらに広範な影響を与えた。政治クラブは世俗プロパガンダを組織するようになり、これがミラボータレーランの準備していた国民祭典の体系と合流することで、より大きな流れとなった。愛国者パンフレット、民衆集会などが例として挙げられるが、その中でも民衆協会の設立は、それがカトリシズム礼拝に代わる「理性と法の礼拝」(=市民礼拝)となっていくという点で重要であった。

立法議会はカトリシズムの打倒のみならず、それを別のものに置き換える必要を感じていた。モワは聖職者市民法の廃止のみならず、国家を「積極的に」世俗化する必要があると論じている。つまり、各宗派に対する監督・検閲権を国家に与え、個別のもろもろの宗教を超えたところに国家宗教を立ち上げようとするのである。国家の監視権は儀式、礼拝、典書、さらには野外での示威行動、衣装、埋葬にまで至る。そして、国家はその一体感を支えるために様々な宗派に代わり、「一つの」祭礼を持つべきだと考えられ、フランスの国家宗教が創造される。司祭は司法官にとって代わり、賛美歌やミサは自由を記念するための詩や史実の朗読にとって代わり、国民は新たにその礼拝と団旗を持つ——この国民の礼拝が打ち立てられるべきだというのである。聖職者市民法の撤廃に関して、当初はそれが宗教の廃止であると民衆に誤解される恐れがあると慎重な立場をとっていた議会も、もはや多数派の勢いにあらがえず、結局宣誓拒否僧の流刑が決議された。

その後、公民宣誓をさせる民衆集会の実施や公共精神を涵養する祭典の開催、さらには戸籍事項の世俗化、修道会の廃止などの国民宗教の創造に向けた動きが見られるようになった。だが、ここまで見てきたように、立法議会は決して宗教を拒否しようとしていたわけではない。カトリシズムと縁を切っても、宗教的な性格は残したがっていた。かつての旧秩序の向けられた忠誠をなんとか新しい政治秩序に振り向けようと思案していた。彼らは、新しい政治制度を擁護し、それに愛着を持たせることを目的とした市民宗教的な組織の計画を構想していたのである。