読書日記

日々の読書の記録を、つらつらと。

『イスラーム政治と国民国家——エジプト・ヨルダンにおけるムスリム同胞団の戦略』吉川卓郎

吉川卓郎『イスラーム政治と国民国家——エジプト・ヨルダンにおけるムスリム同胞団の戦略』(2007、ナカニシヤ出版)

 

本書は、中東やイスラーム本質主義的に一元化する議論に対し、エジプトとヨルダンの同胞団の活動に焦点を当てることで、それらの多様性や地域性を再考しようと試みた一冊である。

第一章では、中東のイスラーム主義運動がいかにして論じられてきたかの概説とムスリム同胞団の歴史や理念の大筋が論じられる。イスラーム主義は、大きく分けて①政治文化的アプローチ、②レンティア国家論、③近代主義アプローチの3つの視点から論じられてきたという。①の政治文化はイスラーム主義を固定化・本質化して一元的にとらえる傾向があり、②のレンティア国家論は対象となる国家が限られることもあり、充分な蓄積が少ないといった問題を孕んでいる。③はイスラーム主義運動を近代化から派生した思想の一つとする議論であり、ケペル、アップルビーらの原理主義プロジェクトなどに代表される。彼らは、イスラーム主義運動も、現実の国民国家体制や地域社会・政治に順応して受動的・合理的に活動していると主張する。また、イスラーム主義運動をナショナリズムから見る立場も、③の主張を補強する。イスラーム主義が理想とする共同体は、あくまでも宗教共同体であるが、国家権力の掌握を目指すにつれナショナリスティックにならざるを得ないという。

続いて、エジプト・ヨルダン同胞団の歴史、理念が略述される。エジプト同胞団はハサン・バンナーによってイスラームが内外双方の敵に包囲され、消滅の危機に瀕しているという危機感の中で結成された。その理念には、反帝国・植民地主義、道徳的頽廃への危機感が反映されていた。ナセル・サダト政権とのかかわりは、協力体制にある時期、弾圧を受ける時期、が混在しており、その時の状況に応じて様々であった。弾圧を経験したエジプト同胞団は、その後「合法性」の基盤を強く求めるようになっていくのである。ヨルダン同胞団は、アブー・クーラートによって結成され、ヨルダン国王の庇護の下で同胞団の運動は進められた。そのため、ヨルダン同胞団は国家への協力を基本指針とし、理論よりも行動を重視し、現実の中で柔軟に活動してきた。このように、ヨルダン同胞団はエジプト同胞団と対照的に、「合法性」を有した運動として出発したのである。

第二章では、エジプト同胞団の対人民議会活動が分析される。エジプト議会は、大統領の影響力を強く受けるアリーナとなっており、大統領が党首を務める国民民主党議席のほとんどを占める状態となっていた。そのためエジプト同胞団は合法基盤を持つことができず、新ワフド党や労働党と合流して選挙に挑んだ。1990年代に入ると、与党有利の選挙に対して同胞団はボイコット戦略をとった。しかし内外のイスラームの過激化を受け、イスラーム主義に対する風当たりが強くなる中で、国家によるイスラーム支配が強化された。そうした中で同胞団は次第に存在感を失っていく。2000年の総選挙においては、「イスラームこそ解決」という同胞団のスローガンは姿を消し、女性やコプトが候補者として加えられた。だが、長年汚職と暴力にまみれてきた選挙に対し、有権者は政党離れの状況にあり、無所属者が多く当選するようになってきている。

第三章では、ヨルダン下院におけるヨルダン同胞団の活動が分析される。四月暴動後に国王が多様な勢力の下院参加許容を通じて国内の一体性・正当性を強化しようと試みたこともあり、1989年選挙後に同胞団は下院で一大勢力を形成した。すると同胞団は議員を中心に行動戦線党を結党する。しかし、次第に政府が対イスラエル和平路線を進めると、行動戦線党はこれに猛反発した。1997年の選挙では政府が批判を抑えるために言論弾圧を進めると、同胞団が行動党の選挙ボイコットを独断で決定し、対政府関係の悪化と同胞団内部対立の悪化が明らかになった。2003年に6年ぶりに下院選挙に復活した行動党であったが、政治的影響力の低下はもはや避けられなくなった。総じて、同胞団・行動党の下院活動は、イスラーム、教育、パレスチナ問題といった特定事項に限られており、政権獲得よりも、野党として政権を監視することに彼らは焦点を当てていたのである。

第四章では、湾岸危機をエジプト同胞団はどう見ていたかを分析する。エジプト同胞団は、湾岸危機を地域的な問題であるとみなし、アラブ・イスラーム世界内の平和的解決を主張した。一方で、英米イスラエルの介入に猛反発し、警鐘を鳴らした。こうした基本姿勢から、彼らはパレスチナ問題が何よりも解決すべき大きな問題である、アラブ域内の自由化・民主化が必要である、という二つを主張した。湾岸諸国に対する姿勢をめぐっては同胞団内部で分裂傾向が見られ、サウジなどの支援を当てにするために彼らへの批判を控えるエジプト同胞団は他国の同胞団組織から反発を受けた。結局、エジプト同胞団はイスラーム主義運動の一翼を担うものとしての独自性を打ち出すことができず、湾岸危機に対して有効な対策を用意できなかったのである。

第五章では、湾岸危機におけるヨルダン同胞団の活動が分析される。ヨルダン特有の事情として、親イラクの機運が醸成されていたことを考慮に入れる必要がある。対イスラエル関係からイラクの軍事力を当てにする必要があったこと、イライラ戦争以降に対イラク貿易がヨルダン経済を支えていたことなどが理由として挙げられる。同胞団も対イスラエル戦略からイラクを支持していたが、一方でバアス党の汎アラブ主義には反対であった。これにもかかわらず、湾岸危機に際しヨルダン市民の多くが親イラクの立場を鮮明にすると、これに合わせる形で同胞団も親イラクの立場打ち出し、街頭行動を先導した。だが、多国籍軍空爆が始まり、イラクの劣勢が早くも明らかになると、ヨルダン市民は早々にイラク支持に見切りをつけた。同胞団も市民の動きに合わせ、イラク支持活動も形骸化していった。同胞団はイラク支持の報復としてサウジからの支援打ち切りや国際社会からの非難に見舞われたが、一方で、国内情勢に合わせて行動した彼らは、ヨルダン国内での支持基盤をより盤石なものとすることに成功したのである。

両同胞団はイスラーム主義運動として出発し、「イスラームこそ解決」の旗印の下に活動を開始したが、このイスラーム主義的理念は政策においてはほとんど意味をなさず、形骸化していた。さらに、両同胞団が政治参入を進めるにつれ、両国の現実に合わせた活動をせざるを得なくなった。その意味で、両同胞団共に地域性の強さ、国際性の希薄さは明らかである。

 

同胞団という同理念を共有する政治運動が、異なる現実の中で、異なる活動をするようになるという指摘は、ウェーバーの言う理念と利害状況の転轍手のテーゼを思い起こさせる。  

以下、興味深かった点をいくつか。

サダト政権が政教分離を強調し、私設モスクの国有化を進めた、という点

 一般に政教分離とは、政治と宗教の分離であって、政治による宗教のコントロールではない。一方で、こうした国家が宗教を管理統制しようとする動きは、トルコのラーイクリッキの典型であることから、決して例外的なことではない。ここで「政教分離」は、ラーイクリッキのようなものとしてとらえればよいのだろうか。

②エジプト憲法が71年憲法では「シャリーアは立法上の主要な法源の一つ」であったのに対し、80年修正第二条では、「シャリーアは立法上の主要な法源である」となった

③エジプト議会のうち、10議席分は大統領指名となっており、コプトや女性等の社会的少数者が選ばれている

④ワサト党(エジプト同胞団から分裂)の活動

 =イスラームのみならず、社会的少数者をメンバーとして積極的に包含、綱領から同胞団色を排除、多元主義の協調、キリスト教徒などとの対話実践

 彼らの活動は、トルコ公正発展党の成立過程と非常によく似ている点が多い。公正発展党は民主主義、多元主義を強調し、さらに既存のイスラーム主義勢力との差異を強調(イスラーム色を前面に出さず)することで、支持を拡大していった(今やイスラーム化、権威主義化が顕著だが)。