読書日記

日々の読書の記録を、つらつらと。

『社会科学の方法——ヴェーバーとマルクス』大塚久雄

大塚久雄『社会科学の方法——ヴェーバーマルクス』(1966、岩波新書)

 

「社会科学の方法」
本論は、「社会科学において”科学”的認識、あるいは”因果”性に基づく分析は可能か」という問題意識から出発する。自然を研究対象とする自然科学の領域では、自然物に自由な意思はないため、因果性に基づく分析が可能だが、自由に行動しうる人間を扱う社会科学において、上のような分析は成り立たないように思われる。これに対し、マルクスウェーバーはそれぞれ独自のやり方で社会科学における科学的認識を 可能たらしめた。
マルクスは、経済学の認識対象として「生きた個人」を重視する。そして、この個人を科学的認識することを可能にすべく、以下のような方法をとる。すなわち、人間は労働に際して分業をするが、この分業は自然成長的になされる。結果、人間は疎外されることとなり、人間自身の力に他ならない社会の生産力をどうにもならない客観的過程(=いわば物化)として捉えてしまう。つまり、経済現象が客観的過程=「自然史的過程」として現れるが故に、自然科学のような科学的認識成立するのだ、という説明である。マルクスは、この物化過程を認識した上で、「物と物」の関係となってしまった社会関係を「人と人」の関係に取り戻そうとするのである。
マルクスが経済の人間への影響を論じたのに対し、ウェーバーは様々な諸領域の人間への影響を論じる。彼は「人間の自由な意志が拡大されればされるほど、因果性の追求(=科学的認識)は一層容易になる」という考えに立つ。すなわち、社会科学における「目的論(目的-手段連関)」を自然科学的な「因果論(原因-結果連関)」に読みかえようとするのである。この読み替えは目的論を客観的に見ることで可能になるというが、これは人間特有の「動機」に着目した方法であると言える。「経験的な規則性の知識」に「動機の意味解明による理解」という情報が加わることで、自然科学以上に社会科学は確実な分析ができるようになるのである。

 

「経済人ロビンソン・クルーソウ」
本論はデフォーの『ロビンソン漂流記』論となっており、同小説が後の産業革命において重要な役割を果たした中等身分の人々=「経済人」のタイプを描き出したと主張する。当時の中等身分の人々は、分業制、エンクロージャーに基づき農村でマニュファクトリーに従事していた。彼らは時間を重視し計画を立てるなど合理的な精神の持ち主であった。単なる金稼ぎを目標とするのではなく、彼らは経営それ自体を自己目的として献身する精神を持ち合わせていた。儲かったお金は再生産の費用となり、有益な財貨を隣人に供給することで国民の生活向上に寄与した。ロビンソンは、上のような精神を持つ「経済人」の典型であり、そうした人々の生き方をユートピア的に理想化したのが、『ロビンソン漂流記』だったのである。

 

ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」をめぐって」
ウェーバーは論文「儒教とピューリタニズム」で、儒教とピューリタニズムの興味深い比較をしている。
儒教は感性を重視する。したがって、あるがままの人間、秩序を肯定的に捉えるオプティミスティックな立場にある。一方でピューリタニズムはあるがままの状態を罪(原罪)とみなし、あるがままの人間、秩序を神のために作りかえようとする。
儒教は身分的倫理として官僚層の思想と同一化している。一方で民衆は道教を信仰しており、支配者階層の宗教(儒教)と民衆宗教(道教)の二重構造が固定化していったという。これに対して西洋ではこうした二重構造の固定化は見られない。
この違いは両者の人間観、エートスの違いに由来している。即ち、儒教が外面的品位の倫理を重視し、現世は善いもの、人間は善いものであり修養によって自己完成ができるようになると解く一方で、ピューリタニズムはこうした楽天的見方を放棄し、どんなに修養を重ねても救いは無理であると考える。この違いが二重構造の固定化の一因となったとみなすのである。

 

ヴェーバー社会学における思想と経済」
本論は、ウェーバー社会学的思想を、経済と宗教という両極間の緊張関係という見方から捉え直す。
プロ倫もそうだったように、ウェーバーは「理念(宗教)」と「利害状況(経済)」の緊張関係を重視している。プロ倫は、ピューリタニズムという理念が資本主義の発生の一つの不可欠な促進的要因であったことを明らかにしたものだが、彼は促進的要因が一つだけであったとか、必然的な要因であったというようなことを強く否定している。彼にとってはピューリタニズムの資本主義に与えた影響と同様に、その他の利害状況が資本主義に与えた影響をも重視しているのである。
ウェーバーは諸文化領域間に様々な緊張関係があるとしながらも、取り立てて経済と宗教を取り上げたわけだが、これは両者が両極的な特徴を有しているからだという。経済は一方の極として利害状況を決定づける日常的なもの、宗教は他方の極として理念を決定づける非日常的なもの、という両極である。我々は自分の利害状況を無視して動けるものではない。利害状況は歴史の中で個人を動かしていくのだが、やはりどこかで理念が決定的な作用をする。新しい理念が出現して、歴史の中で利害状況に新しい道を指し示す。そしてまた、新しい道で利害状況が歴史を推し進めていくーーというように。