読書日記

日々の読書の記録を、つらつらと。

『ジェンダー・トラブル』ジュディス・バトラー

ジュディス・バトラージェンダー・トラブルーーフェミニズムアイデンティティの撹乱』(訳)竹村和子 (2018、青土社)

 

生物学的な性(=セックス)という自然主義的・本質主義的な前提に疑問を投げかけ、これが権力の法システムによって構築されたものであることを明らかにしたフェミニズムジェンダー理論の最重要書の一つ。

 

「セックス/ジェンダー/欲望の強制的秩序」
一般的にジェンダーは文化的に構築された秩序であり、セックスは生物学的な自然な秩序であるとみなされてきた。これに対してバトラーはそもそもセックスの二元性は生物学的に所与のものなのかを問い直す。すなわち、セックスとは可変的な社会構築物であって「作り上げられた」ものなのではないか、と考えるのである。セックスを自然なものとみなす態度はジェンダーという装置によって作り上げられ、強化され、確立されたものであり、一般的に考えられているようなセックスという生物学的差異からジェンダーが派生したという考え方の誤謬を指摘する。

「現代の論争の不毛な循環」「二元体、一元体、そのかなたの理論化」
こうした考えに立ち、バトラーはボーヴォワール、イリガライのジェンダー研究を批判的に検討する。ボーヴォワールは女になる前の「主体」を想定しているという点で、イリガライは個々の文化的個別性を認めずあらゆる問題を「男根ロゴス主義」に起因するものとして包括してしまっているという点で、女というカテゴリーの一貫性、統一性を前提視しているという。

アイデンティティ、セックス、実体の形而上学
こうした女というアイデンティティの一貫性を前提視する見方はアイデンティティを「ひと」に内在する特質とみなすことに由来する。しかしながら、アイデンティティとは社会的に設定されて維持されている理解可能性の規範でしかない。とすると、セックスというアイデンティティは「内在的にある」ものではなく、むしろ一貫したジェンダー規範というマトリックスを通じて(パフォーマティブに)構成される規範的実践でしかないのである。

「言語、権力、置換戦略」
ウィティッグはセックスという二分法は制度化された強制的異性愛の命令によって生産されたものであると考えたし、ラカン派も男性という「主体」は異性愛化の欲望の無限の置き換えを強制する法によって生み出された構築物でしかないとみなしたし、フーコーセクシュアリティを権力によって構築されたものであると考えていた。セックスを性的経験や行為や欲望の原因と定めることは、そこうした生産装置の戦略的な目的を隠蔽してきた。これに対し、バトラーは「構築されたセックス」をいかに構築し直すか、を構築に際し現れる「言説の複合性」に見出す。また、構築がパフォーマンスの繰り返しによってなされることから、繰り返しの行為によって構築を変容させるのではないか、と可能性に向けての提言を行う。

上の要約は第1章のみであり、この後にレヴィ=ストロースフロイトラカンを分析した第2章、クリスティヴァ、フーコー、あるいはウィティッグの「レズビアン」理解を批判的に検討した第3章が続く。のだが浅学の私には全く理解できず(特にラカン派の話)第1章のみで挫折。ただ言い訳がましいが第1章が核のテーマなのでとりあえずは良しとしよう。フーコー流の社会構成主義の影響と積極的な可能性を語ろうとする姿勢が印象的。