読書日記

日々の読書の記録を、つらつらと。

『性の歴史Ⅰ 知への意志』ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(訳)渡辺守章 (1986、新潮社)

 

近代に入り、「性」というものは抑圧され、性的なことを口に出すことができない時代となったーーこの「抑圧の仮説」をフーコーは問い直し、性の「言説化」は抑圧を被るどころかいよいよ増大する煽動のメカニズム(=権力の技術)に従属していたと主張し、権力と快楽と知の関係を論じた一冊。
第1章では、性の歴史が「抑圧」の歴史であると語られてきたことを説明し、この言説がなぜ支持されてきたのか、なぜこの仮説は問題があるのか、そして我々が本当に問わねばならないことは何であるか、を整理する。第2章第1節では、「抑圧の仮説」に反し、性の言説が増加していたことを、①キリスト教における告白内容の変容、②人口政策としての国家の性への介入の2点から裏付ける。第2章第2節では、一夫一妻制の規範化によってそれ以外の性のあり方が周縁化させられたこと、この「性の倒錯」を綿密に規定、管理し明るみに出そうとする試みがさらに性倒錯を拡大し、人々の間にこれが浸透することで権力の侵入経路が出来上がったこと、が論じられる。ここにおいて性倒錯は法廷のものから病院のものへと変容する。第3章では、性についての告白が科学的な言説へと変容したこと、この言説の真理性を探求しそれらを体系化しようとする学問=「性の科学」が誕生したことが論じられる。第4章では性的欲望が自然なものではなく性的言説によって遡及的に生み出されたものであると指摘する。そしてこの性的欲望を中心としてめぐる権力システムに注目し、この権力が法的・抑圧的なものではなく、局地的な無数の点から発生する不安定で不規則な権力関係の網として機能しているとみなす。最後に第5章ではこうした権力が生命の経営・管理運営を通じて人々を拘束する「生権力」であり、このため性的欲望が活用されたとして締めくくられる。

フーコーの権力論が「権力=知」という簡単な図式では言い表せないような多層的なものであったことがよく分かる。キリスト教の告白の技法が精神分析において受け継がれたとするフロイト理解が面白かった。